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黒い尖塔とマーマレードの空 作品解説

再魔術化された平面宇宙

《黒い尖塔とマーマレードの空》は、平面の上に築かれた、切断と陶酔の小さな神殿である。

 理性に傾きすぎれば、身体は空虚になり、感覚に溺れれば、意味が壊れてしまう。

 どちらにも偏ることができず、世界の中に自分の輪郭が見出せない。そうした感覚はいわば「どこにも属さない者」としてのクィアな在り方に近い。

 実際に私は、土地・性別・国籍・言語といった帰属の指標から距離を感じてきた。その不在から生じる不安と孤独のなかで、いかに意味を見いだし、肯定的に生きるかという問いを続けてきた。やがて私は、そのクィア性を「定義されない感覚への開かれ」として捉えるようになり、自らが意味を与える構造を描く中に、「自由」の可能性を感じるに至った。

 こうした感覚は、現代において決して特殊なものではない。高度に情報化されたこの社会では、多くの人々が自分の位置を見失い、「自由」の名のもとに投げ出されている。個人は構造なき自由のなかで宙吊りにされ、自己の最適化という強迫にさらされている。

 19世紀以降の科学技術の発展は、あらゆるものを分節し、測量し、管理可能な単位へと変換してきた。それに応じて、我々の「感覚」や「情緒」、つまり言語に還元されない生の領域は、次第に無効化されていった。

 このシリーズは、そうした時代において、理性と感覚の緊張を孕んだ共存こそが、生を肯定する回路なのではないかという問題提起から出発している。

 

 これまで私は「理性と非理性」「精神と肉体」といった二項の相剋を主題に制作を重ねてきた。

 2022年には、自らの理知に対する執着と強迫を扱った半自伝的な展覧会《強迫症的なオレンジ色の部屋》を東京で開催し、2023年には「感情」「遊び」「信じること」といった非合理的価値を再考する作品シリーズ《オレンジ・ダイアモンド・ランド》をベルリンで発表した。

 そして本作では、対立を乗り越えるのではなく、緊張を孕んだまま共存するような構造そのものを、ひとつの平面のなかに描こうと試みている。

 

 この緊張を孕んだ構造は、ニーチェが《悲劇の誕生》において述べた「アポロン的なもの」と「ディオニソス的なもの」の対立にも通じる。アポロンは明晰さと秩序、個体化の力を、ディオニソスは陶酔と混沌、普遍的な生命の力を象徴する。

 ニーチェにとって、芸術とはこの相剋を引き受け、その裂け目にとどまることで可能となる存在の肯定だった。私の絵画もまた、理性と感覚の一方に与するのではなく、そのあわいを構造化し、画面という断面において持続させようとするものである。

 

 タイトルに掲げた「黒い尖塔」は都市や摩天楼、あるいは人間の知性の極点を象徴している。

 それはまた、世界を分節する言語的知性、あらゆる混沌を「切断」して秩序づける力の象徴でもあり、言語・論理・システム、そして知の支配の記号でもある。黒には、可視性を奪い、世界を覆い隠す強度を持つ。実際に本作では、世界で最も黒いとされる塗料を用いて、視覚情報を遮断するような裂け目を画面に刻んでいる。

 一方、「マーマレードの空」は、子どもが感じるような無邪気さ、安心感、情緒、高揚感、そして身体的な感覚の記憶のような感覚の連続性を表している。果実のみずみずしさと砂糖の甘さ、朽ちかける寸前の儚さが混ざりあった、とろけるような煌めき。その色彩は、音楽のような揺らぎを帯び、陶酔の時間を描き出している。

 

 このように、尖塔と空という断絶されたふたつの領域を、一つの画面上に共存させることが、本作の構造的テーマとなっている。

 そのために私は、画材の選択にも極めて意識的なアプローチをとった。

 マーク・ロスコの絵画が、油彩だけではなく、膠や全卵、そして様々な天然のピグメントを塗り重ねることによって呼吸する画面を生み出していたことに着目し、私もまた、全卵、雲母、胡粉といった自然由来の素材を使用している。これらの素材は、単なる質感の演出ではなく、感覚を物質化するための象徴的な層として用いられている。

 本作におけるミクストメディアは、単なる素材の混合ではない。それぞれの素材が意味を担い、感覚の構造を詩的に可視化するための技法である。

 

 20世紀のモダニズムにおいて、絵画は「純化」の方向へと進み、物語や装飾といった要素は排除された。

 クレメント・グリーンバーグの理論に象徴されるように、絵画は平面であることに徹し、形式そのものへの自己言及を深めるべきだとされた。だが私にとって平面とは、そうした還元の場ではなく、むしろ抑圧された感覚や記憶、夢や物語を再び呼び戻すための構造的舞台である。

 また、私の作品における装飾性は、視覚的快楽だけのための意匠ではない。それは言語以前の感覚を象徴化するための構造装置であり、秩序を持った感覚の詩学である。

 象徴主義やアール・ヌーヴォーにおいて、装飾は単なる表面の美ではなく、「世界の神話化」の一手段だった。これは現代においても更新可能なものと考えている。特にグスタフ・クリムトの作品に見られるように、装飾は身体性とエロスと死の観念を織りこむ精神の建築装置であり、金箔や幾何学模様は生と終末を共存させる象徴の結晶として画面に張り付いていた。

 私の装飾性もまた、過去の様式の単なる引用ではない。抑圧されていた感覚の言語を現在の文脈で解き直すことで、絵画を象徴の宇宙へと呼び戻す営みなのだ。

 このシリーズは、過去の美術様式の再演ではなく、その再編成である。

 断絶と共存、知性と感覚、切断と連続。そうした二項対立の緊張そのものを詩的に構成することが、私にとっての絵画である。

 

《黒い尖塔とマーマレードの空》とは、再魔術化された平面宇宙である。

 それは、分断された感覚、構造化された知性、そして名付けえぬ情緒──それらが緊張を孕んだまま共存する舞台であり、失われた全体性の再構築を試みる詩的な構造である。

 すなわちこの平面は、物語の断面であり、構造と感覚を等価に交差させる詩的な装置である。その限られた領域にこそ、不安や孤独、陶酔や信仰といった実存の深層が現前する。

 世界と再びつながるための回路は、言語の手前にある感覚の応答のなかに潜んでいる。

 私はこの装置を通じて、実存に裂かれた者たちに向け、「自由」の可能性を託している。その「自由」とは、定義された選択肢の中にあるのではなく、感受によって世界と交わり続けることにほかならない。

 そして、再び人々が詩を思い出し、忘れられていた結び目が感覚のうちに回復することを願っている。

©2025 by MAO HAIMURA

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